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2007年07月04日

7月初旬 島田知事の最期(2)

 「知事さんは左大腿部を負傷しているらしく、左肩を下にし、横になっておられた。『負傷されたのか』と聞くと、『足をやられました』と言われた。もう自由に体を動かせる状態じゃなかったですねえ。何か黒っぽい国民服のようなものを着て、黒ぶちのまんまるい眼鏡を掛けていたのを覚えています。壕の中には、ほかにだれも居らず、図のうの傍らにふたを取った飯盒がありました。すると、知事さんは『兵隊さん、飯盒の中に黒砂糖があるから、持っていらっしゃい』と言われた。なるほど、黒砂糖の四角い板が3枚入っていましたので、『そいじゃ、申し訳ないが、2枚もらって行きます。元気で居て下さい』と言って、壕を出ました。その翌日か翌々日、私らは海岸でタマネギ1箱と紙袋に入ったメリケン粉1袋を拾いました。撃沈された味方の輸送船から流れ着いたものらしく、メリケン粉は外側は海水がしみていましたが、中は良く乾いていました。それで団子をこしらえ、もらった黒砂糖をまぶして飯盒に入れ、この前のお礼にと、知事さんの所へ持って行ったのです。そして、例の横穴に入ろうとしたら、下の壕に居た地方人の男女3人が『知事さんは亡くなりましたよ』と、はっきり言いました。後で聞いたのですが、その人たちは学校の教師だと言っておりましたから、知事の顔は知っていたわけで、私はその時、ああ、やっぱり知事だったんだなあ、と改めて思ったのを記憶しています。それで、壕に入ってみますと、知事さんは私が最初に見た時と同じ姿勢で横たわっておられたが、あごの近くに小さな拳銃が落ちていまして、耳の下から後ろにかけて、ものすごく血が流れていました。飯盒も図のうも、あの時のままの状態で、辺りは乱れていませんでしたから、拳銃で自決されたな、と思いました。合掌して、知事さんの壕を出ました」
(32軍直轄独立機関銃第14大隊の山本初雄分隊長)


具志頭玻名城海岸


玻名城海岸に残る火炎放射器跡   


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2007年07月04日

7月初旬 島田知事の最期(1)

 「私は他の部隊の兵隊2人、首里から来たという姉妹ら地方人3人と一緒に具志頭、玉城の辺りの自然洞窟に潜んでいました。昼間は危ないもんだから寝ていて、食糧捜しには夕方から出掛けました。それも、壕の中ばかり捜しました。戦争が終わったのを知って、地方人が出て行った後の壕には、何か食べ物が残っていて、効率が良かったからねえ。その日は、具志頭の自分たちの入っている洞窟から東の玉城方向へ、海岸沿いに200メートル程歩きました。摩文仁の丘からは北東へ3キロくらいの場所だったと思います。海のすぐ近くの自然壕に男2人、女1人の中年の地方人が入っていましたが、その上の方、水際から50メートルくらい上がった所の断崖の中腹に、入口の大きな横穴壕がありましたので、私は1人で入ってみました。奥行きは、あれで5、6メートルぐらいだったかなあ。夕方の薄明かりが差し込んでいるだけなので、暗いんですが、男の人が1人、頭を奥にして横たわっているのが見えました。私は初め、死んでいると思いまして、その辺に目を凝らしました。あの頃は遺体に手を合わせてから、枕元の食糧や持ち物を頂くようなことを、しょっちゅうやっておりましたものねえ。ところが、その人は息をしているようなんです。そして、向こうから声を掛けてきました。『兵隊さん、知事です』と言われたように記憶しています。そして、枕元の図のうのような物から名刺を出し、差し出された」
(32軍直轄独立機関銃第14大隊の山本初雄分隊長)


具志頭与座にある壕跡


具志頭サザンリンクスゴルフ場にある壕跡


具志頭の玻名城海岸   


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2007年06月26日

6/26 八原高級参謀、米軍捕虜となる

 「首里放棄にあたって最も苦慮したのは、傷者の処置だった。5月末、全戦線の負傷者総数は、1万に達したであろう。南部・島尻の新陣地に後送しても、これを収容する洞窟がない。長参謀長の指示は
『各々日本軍人として恥ずかしからざるごとく善処すべし』
であった。事実、大多数の傷者は平素教えられたように『天皇陛下万歳』を三唱し、手榴弾、急造爆雷、あるいは青酸カリなどの薬品をもって自決した。しかし、皆があっさり自決したわけではない。精神力旺盛な者は驚嘆すべき力を発揮し、自力で新陣地に後退した。ある傷者のごときは両足の重傷に屈せず、十余キロのどろんこの道を座行した」
(米軍捕虜となった八原高級参謀の告白)
 
     


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2007年06月26日

 6/26 島田知事と荒井部長、軍医部壕を出る


島田知事と荒井部長を顕彰する「島守の塔」顕彰碑。


島田知事がいた軍医部壕の前に立つ、古い顕彰碑。1951年に立てられた。2003年撮影。


 「島田さんと荒井さんが軍医部壕を出られた日をはっきり確定できなくて申し訳ありませんが、確か25日か26日の午前0時前でした。島田さんは『この壕にこもっとっても駄目だから、国頭の方へ中央突破します』と言っておられたが、荒井さんが相当弱っておられたから、そう遠くへ行けるはずはありません。ああ、死に場所を求めて出られたな、壕内で死ぬと我々に迷惑が掛かると気遣われているな、とその時、感じましたが、我々にはもはや、止める気力はありませんでした。それが、お別れになりました。どちらの方向へ行かれたら、その後の消息は知りませんが、かねて言っておられたように摩文仁近辺で自決されたと思います」(大塚証言)。軍医部36人のうち生還したのは、5人に過ぎなかった。

 警察別動隊下地・長山班、15日かかって目的地の久志村にたどり着いたが、沖縄戦の終結で辺野古で米軍に投降。


 内務省は大塚報告に基づき、遺族とも相談の上、島田と荒井が軍医部壕を出たと思われる26日を死亡の日と認定、この日が命日となった。島田の在任期間はわずか5か月足らず、行年は島田が43歳、荒井が44歳だった。   


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2007年06月23日

6/23 牛島司令官と長参謀長、自決

午前4時30分、牛島指令官と長参謀長が軍司令部壕で自決。沖縄戦の組織的戦闘が終わる。






摩文仁の軍司令部壕入口  


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2007年06月21日

このころ 島田知事、最期への決意

 「本島が陥落したら自分は生きておれぬから自決する、と何度も言われた。青酸カリを国民服の内ポケットに常に用意しておられ、これを飲めば死ねるかと尋ねられたので、青酸カリは風化することがあるので、それだけでは駄目かもしれません、と答えると、それでは拳銃の方が確実かな、と言っておられた。その責任感と決意を無下に否定することも出来ず、私としては

『まだ死なれるのは早い』

と押し止めるほかありませんでした」

(大塚述懐)



 「『君も兵庫県の出身か、懐かしいなあ。僕も兵庫県出身じゃ、神戸じゃ』と言われ、私の現在の任務や年齢などを聞いて下さいました。17歳という私の答えを聞いて、同い年の娘さんが居られるようなことも言っておられました。今日死ぬか、明日死ぬか、の殺伐とした戦場で、久々に交わした人間らしい会話でした。暗くて顔の表情までははっきり見えませんでしたが、黒縁のまん丸い眼鏡越しの目は優しく、穏やかな口調が印象的でした。そして

『僕も必ず生きて帰るから、君も頑張るように』

と、おっしゃった。戦後になって、あのころにはもう死を決意されていたことを知り、あえて心にもないことを言って励まして下さったのだなあ、と感謝しています。その後の私は、沖縄の最果てで聞いた同郷の大先輩の言葉を忘れず、懸命に生き延びましたから」

(当時17歳の志願兵で、南西諸島航空隊の海軍2等整備兵曹だった三枝利夫兵曹。小禄飛行場玉砕の13日、軍司令部に居た航空参謀・松原少佐へ伝令を命じられ、迫撃砲の集中攻撃を浴び軍医部壕に飛び込む。この後、右足を負傷しながらも陸軍の兵隊3人と共に摩文仁を脱出、中部の中城村まで北上したが、ここで力尽きて米軍に投降。終戦から1カ月近くも後の9月13日だった)

  


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2007年06月21日

6/21 米軍、摩文仁を総攻撃開始




摩文仁の丘

 「この日も例によって朝6時ごろ砲撃が一旦止んだので、急いで壕の外へ出ますと、良い天気でした。砲弾が飛んで来る中で排便するのは落ち着きませんので、皆喜んでそれぞれに用を済ませ、深呼吸を楽しんでいましたら、急に米軍のスピーカーが放送を始めました。日本語、沖縄の方言、英語の3種で

『只今から総攻撃を開始する。戦闘に関係ない者は壕から出て、東へ歩け』

と繰り返し、道路を指定しました。軍司令部や軍医部の壕には、書記の女性30人程も付いて来ていましたので、司令部から

『出て行きなさい』

の命令が出ました。しかし、娘たちはなかなか出て行きませんでした。結局、残った人もいました。島田知事に随行していた県庁の職員の方2人はこの時、知事に説得され、知事と荒井警察部長を残して壕を出て行かれました。残った軍医部長以下36人と知事、警察部長は、非常食として作ってあった焼米を分け、水筒に水を詰めて、壕内の鍾乳洞の方へ潜り込むため、降りて行きました」

(大塚の回想)。



 米軍、摩文仁を総攻撃。午前7時から始まり、摩文仁の丘の一番高い所にあった経理部の壕は爆雷を投げ込まれて全滅。軍医部壕も入口の機関銃座と壕口付近が吹っ飛ばされた。



 「鍾乳洞の中は寝て手を伸ばすと天井につかえる程で、低い所は4、50センチぐらいしかなかったでしょう。しかし、案外広くて、皆それぞれに居心地の良い場所を選び、寝ころんで、目と鼻の先の天井をにらみながら、息を殺していました。軍医部壕の方へは硫黄弾やら催涙弾やら、いろいろなものが投げ込まれたが、鍾乳洞の入口にテントをぶら下げていたので、煙は来なかった。一日中、戦車のキャタピラの音がしていましたが、何をしているのかも全く分からないままで、焼米をかじっての不安な、長い長い一日でした。(夜になり)外へ出てみると、全く静かでした。時々前方から機関銃が発射されるが、曳光弾が入っているので、どこを撃っているのかが判るので、安心して歩けました。摩文仁の丘の上まで、米軍の軍用道路が1日で出来ていたのには驚きました。昼のキャタピラは戦車ではなく、その工作機械車の音だったのです。米軍の物量のすごさに驚くばかりでした」

(大塚回想)。



 県庁職員2人(仲宗根官房主事、仲村警部補)とも消息を断ち、遂に生還しなかった。



摩文仁司令部壕付近の火炎放射器で焼けた跡  


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2007年06月20日

6/20 沖縄の地獄、いよいよ極まる

 日本軍の戦死者、約3000人。投降者、大平洋戦争でかつて例のない977人(米軍記録)。もはや、最後まで敢闘し得る状況ではなかった。〝鉄の暴風〟の真ッ只中にあった集落は、島田や荒井が恐れたとおり、地獄と化した。



 野村一行、海岸に上がったところで米軍の捕虜になる。野村は死ぬまで「僕は島田さんの帯で9死に1生を得た」と言い続けた。脱出を図った3報道班員のうち助かったのは、野村1人だけであった。



追いつめられた多くの県民が身を投げた摩文仁の断崖
  


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2007年06月19日

6/19昼 毎日新聞野村支局長が島田に別れ

 昼ごろ、島田と親しかった毎日新聞の野村支局長が19日夜の脱出を控え、お別れのあいさつのため軍医部壕を訪れる。

「島田は薄暗い壕の中で、長い膝小僧を抱いて所在なげに壁に寄り掛かっていた。荒井はその横で、死んだように寝ていた。野村は島田の前に屈み込んであいさつした。

 『知事さん、いろいろお世話になりました。今夜、奄美大島出身の2人の兵隊と北部へ脱出することになりましたので、お別れに参りました』

 『そうですか、しっかり頑張って下さい。成功を祈っていますよ』

 島田は野村の手を固く握り、励ました。親しく話す機会はこれが最後、と思った野村は、かねてからの考えを小声で口に出した。

 『知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、出られても良いのではありませんか』

 すると、島田はキッと顔を上げ、切り返すように言った。

 『君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね?沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ?』

 ややあって、自嘲するように暗然とした表情で付け加えた。

 『それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。これは、きっと、末代までの語り草になると思うよ』

 『それじゃ、知事さんは、これからどうなさいますか?』

 『無論、軍と最期を共にします。見苦しい体を残したくないから、遠い海の底へ行くかな』

と笑った。その後、打ち解けた時の癖で、神戸なまりをまるだしにして

 『うん、そうや。君にいい物をあげるわ』

と傍らのふろしき包みを引き寄せ、博多織の角帯を取り出した。

 『これは赴任する時、家内が行李に入れてくれたもんやけど、僕は必要がなくなったから、君にあげるわ』

 負け戦の軍司令官は、その責めと、幾多将兵の戦死の責任をとって自決する。とすれば、幾多県民を死なせた地方長官もまた、その責めを負わねばならないーーこれが島田さんのお考えでした」

(野村手記)



 夜、野村はその帯を腹にしっかり巻いて、摩文仁の海を入った。泳ぎが得意な奄美出身の2人の兵は、野村を支えるように両側を並んで泳いでくれたが、野村が波にのまれそうになると、兵隊は腹帯をつかんで引っ張り上げてくれたという。

  


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2007年06月19日

6/19 牛島長官「悠久の大義に」最後の軍命令

 日本軍の戦死者、この日だけで約2000人(6月初旬から中旬まで1日平均約1000人だった)。米軍は、摩文仁の丘一帯に迫撃砲による猛攻を開始した。2日後の総攻撃の前触れだったが、牛島は全軍に最後の軍命令を発した。「今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る 既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし 軍司令官の指揮は至難となれり 爾今各部隊は各極地における生存者中の上級者之を指揮し 最後まで敢闘し生きて虜囚の屈辱を受けることなく 悠久の大義に生くべし」。だが、この日343人が投降(米軍記録)。343人が捕虜になった。
  


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2007年06月19日

6/19 島田知事、参謀部壕に別れ

 「島田県知事が荒井警察部長を伴い、お別れを告げるためにやってきた。かつての宴会の折には「しょっ、しょっ、しょじょじ」の童謡を歌い、幼稚園の児童よろしく無心に踊った知事、そして元気だった警察部長も、ともに今は憔悴していた。『文官だからここで死ぬる必要はない』との牛島将軍の勧告を受けて、参謀部洞窟を出て行く両氏の後ろ姿は忘れることができない」

(八原手記)

  


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2007年06月18日

6/18 島田、荒井、摩文仁軍医部壕にて

 「大部屋の右奥を左手に曲がると、幅2メートル、奥行き10メートルぐらい、天井は大部屋より低い細長い部屋がありました。将校3人はそこに居ました。島田さんたちも、ここへ入って頂きました。両方の壁際に、どこから持ってきたのか、体の幅ぐらいの湿気よけの木製の簀の子を敷きまして、縦2列に寝ていました。配置は一番奥から左、右に篠田軍医部長と鈴木軍医中佐、2番目が私と島田知事、3番目が県庁職員(仲宗根官房主事と思われる)と荒井警察部長…という順序になっていました。つまり私と島田さんは通路を挟んで隣り合わせでした」


 「島田さんが来られたころには、南下して来た米軍の攻撃が激しくなり、日中は壕の中に潜んでいました。島田さんは鈴木中佐と学生時代や京都の思い出などを、なごやかに話されていました。鈴木中佐も私も酒好きでしたから、よく消毒用の局方アルコールを水で薄めて飲んでいました。あれ、20パーセントくらいに薄めると、甘くておいしいんですよ。島田さんも酒好きでしたから差し上げましたが、あの頃はあまり飲まれず、お付きの方にあげておられた。荒井さんは大分弱っておられ、島田さんは『荒井君、大丈夫か』『しっかりせえよ』と病状を大変気づかい、励ましておられました」

(大塚述懐)



摩文仁軍司令部壕へ降りる階段。火炎放射器で焼かれた後が残る  


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2007年06月18日

6/18夕刻 摩文仁司令部壕の牛島長官、決別電報

 夕刻、牛島司令官は「陸海空ヲ圧スル敵ノ物量制シ難ク 戦局正ニ最後ノ関頭ニ直面セリ…」との決別電報を打電した。

 同時に八原高級参謀以下5人の参謀全員と司令部将兵のうち約20人、司令部壕に身を寄せていた全国紙特派の報道班員3人の摩文仁脱出を19日夜と決めた。理由は、これまでの大平洋の島々のように全員が玉砕したのでは、戦訓を本土決戦に生かせない、との考えからである。

 八原、通信主任参謀・三宅忠雄少佐、作戦補佐参謀・長野英夫少佐(八原以外は、のち戦死)の3人には大本営への戦況・戦訓報告を、木村、薬丸両参謀(いずれも戦死)には本島各地での遊撃戦の指揮を命じた。報道班員にも「沖縄本島を脱出し、戦いの実相を本土に報告せよ」との命令が出た。

 この夜、軍首脳部の最後の夕食会が軍司令部壕の参謀部で開かれた。 

  


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2007年06月18日

6/18未明 荒井部長、容態悪いなか摩文仁に向け出発

 真地からここまで一心同体で行動して来た荒井は容態が悪く、島田に同行出来なかった。そこで2日後の18日未明、腹心の仲村兼孝警部補や警防課員に付き添われ、遅れて出発。
  


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2007年06月17日

6/16-17 知事の特命を受けた県職員、相次ぎ殉職

 16日夜、具志頭村港川で、伊野波、小橋川、名城の3人は米軍の機銃掃射を浴びて殉職、座間味も7月2日、与那原で米軍に捕まり、東京への雄図はむなしく消えた。



 翌17日、警察別動隊池原班の玉城警部補と長濱巡査、中頭郡中城村で米軍と銃撃戦の末、殉職。

  


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2007年06月16日

6/16日中 米軍、与座岳突破。戦車による掃討戦へ

 米軍、与座岳を突破。



 米軍は首里攻防戦まで徹底していた「耕す戦法」はもはや取らず、歩兵を伴わぬ巨大なM4戦車が集団で日本軍陣地壕に突進、暴れ回った。有効な対戦車兵器を持たぬ各部隊は壕内に追い込まれ、M4戦車の火炎放射で焼き殺されたり、歩兵の馬乗り攻撃を受けたりして、次々全滅した。その上、北の陸地からは各種砲弾、残る三方の海からは艦砲弾が?鉄の暴風?そのままに荒れ狂った。米軍はそれでもまだ満足せず、飛行機で空中からガソリンの入ったドラム缶を投下、焼夷攻撃まで始めた。南部のすき間が多い不完全な自然洞窟壕は、この新手の攻撃に弱かった。



米須周辺の自然壕


轟壕  


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2007年06月16日

6/16 知事、随行職員を軍壕に入れず轟壕に帰す

 島田に同行の県・警察部職員4人は「長官と最後まで行動させて下さい」と懇願した。しかし、島田は知事官房の代表者である仲宗根官房主事にはそれを許したが、小渡、嘉数両秘書官、当真警護官には「君たちは若い。生きて沖縄再建のために働きなさい」と聞き入れなかった。



 「壕の入口で、私たちはもう一度『このまま、お側におらせて下さい』とお願いしました。すると長官は険しい表情になり『帰りなさいッ。これは私の命令だ』と厳しい口調で言われた。その後、すぐいつもの柔和な顔に戻り、『長い間、いろいろご苦労だった。何にもあげるものがなくて気の毒だが、せめてもの名残りだ。このお金は使う機会があるかどうかわからないが、取ってくれ』と、国民服の胸のポケットから束ねた100円札を全部取り出し、差し出された。私たちの月給が5、60円の時代ですから、大金です。辞退しますと『僕はもう使うことはないから、取っておいてくれ。皆、今後は自重自愛するように』とおっしゃった。これが長官とのお別れか、と思うと、3人とも泣けて、泣けて、滂沱の涙でした。すると『さあ、早く行かないと艦砲が始まるよ』と我々の肩をたたき、壕の外で押し出すようにされた。止むなく私たちは再び轟の壕へ引き返しましたが、あのありがたい、ありがたいお札は、轟の壕で捕虜になった時、米兵に没収されてしまったのが、いまだに残念で、残念で…」

(小渡回想)
  


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2007年06月16日

6/16朝 知事、司令部壕着。軍医部壕に入る

 「島田さんに初めてお会いしたのは昭和20年の2月上旬、着任されてまだ1週間くらいの時でしたが、今度の知事は死ぬ覚悟で来た、大した男だ、といううわさが軍司令部内にもとどろいていましてね。会った第1印象も、その通りでした。4カ月ぶりに軍医部の壕で再会した時、司令部壕の方が広くて堅固なのに、なぜ狭くて貧弱なこの壕に来られたのかな、と不思議に思いましてね、私、島田さんに直接、聞いたんです。すると『牛島司令官が、こちらへ行け、とおっしゃったので参りました』と言われた。それ以上の理由はご自身では話されなかったが、戦後、私は生還された高級参謀の八原さんを訪ねた時、改めて聞きました。それによると、島田さんは司令部壕に牛島司令官と長参謀長を訪ねた時、『最後の行動を共にさせていただきたいので、この壕に居らせてほしい』と頼まれたそうです。ところが、司令官は『自決するのは我々だけでよろしい。知事は行政官で、戦闘員ではないのだから、ここで死ぬ必要はありません』と言われた。司令官としては島田さんに軍司令部壕に居てもらうと、危機が迫った時、自決しかねないと思われたようで、軍医部の壕に入るよう言われたのです」

(軍医部壕に居た大塚康之・薬剤中尉述懐)


   


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2007年06月16日

6/16未明 島田知事、摩文仁へ向け轟壕を出発


轟壕入口


轟壕坑道

 島田、仲宗根官房主事、嘉数・小渡秘書官、当真警護官、案内の野村記者の5人で壕を出発。

 「その時、私たち女子職員は川下の方へ移動していました。早朝、水をくむために出入口近くの水くみ場へ来た時、長官が鉄カブトをかぶって出ていらっしゃいました。『長官殿、どちらへですか』と尋ねますと、こんな風に(体をぐっと近づける仕草をして)近寄られて『僕たちはこれから軍の壕に行く。君たち女、子供には(米軍は)どうもしないから、最後は手を上げて出るんだぞ。決して(友)軍と行動を共にするんじゃないぞ』とささやくように言われました。長官を尊敬し、信じていた私は、それを聞いて悔しくて、悔しくてたまりませんでした。長官は直接おっしゃっていませんが、県庁では常々、死ぬ時はみんな一緒じゃ、最後は靖国神社へ行くんだ、絶対捕虜になるな、って聞かされてきましたから、あの時は長官の真意が分からず、情けないと思いました。『長官、今になって捕虜になれとおっしゃるのですか』と言ったつもりですが、長官にそれが聞こえたかどうかは分かりません。長官はそれだけ言うと、後ろも振り返らないで出て行かれました。私はもうがっかりして、起き上がる元気もなくなり、2、3日寝そべっていました」

(山里和枝の述懐)



 摩文仁までの約7キロは、間道伝いのコースを取った。

「あの日は夜明けと共に、轟の壕を出ました。米軍の艦砲射撃が本格的になる午前7時までに行き着こうというわけです。轟の壕のある伊敷の丘陵を南へ突っ切り、小波蔵集落の東端をかすめて糸州ー伊原ー米須ー小渡(現在の大渡)ー摩文仁へと、丘陵地帯の山裾を拾って歩きました。道中は至る所、電線が垂れ下がり、県民や兵士の遺体が累々と横たわっていました。その一体、一体に長官は手を合わせておられた。少しやつれてはおられたが、動作は相変わらず機敏であられたですねえ。摩文仁では先ず、軍司令部の壕を訪問されました」

「知事さんが軍司令部壕に入られ、私たちが表で待っていた時間は15、6分でした」

(当真の述懐)


  


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2007年06月15日

6/15 県の活動を停止し軍司令部壕に移ることを決意

 「島田さんから伝令が来て、『会いたい』といって来た。早速、真壁に島田さんを訪ねたところ、『やはり自分は軍司令官と最後の行動をとりたい。摩文仁へ案内してほしい』ということであった。翌日の未明、島田さんを案内して摩文仁の壕に牛島軍司令官と長参謀長を訪ね、そのまま島田さんはすぐ近くの軍医壕に入った」

(毎日新聞野村那覇支局長手記)



 「15日の夜、知事から集合の通知があった。あいにく私は2、3日前から発熱して居て、体を動かすことが億劫だったので、次席の松井警部に行って貰った。知事はその夜、県の活動を停止すること、職員の自由行動を許容すること、知事と警察部長は摩文仁の軍司令部の壕へ移ることを言い渡された、と翌朝、松井警部から聞いた。急いで知事の居る壕に行ったが、島田知事は秘書課の嘉数属と小渡属を伴って出発された後だった。しまったと悔いたが、仕方のないことだった」

(隈崎手記)

  


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