2007年06月26日

 6/26 島田知事と荒井部長、軍医部壕を出る

 6/26 島田知事と荒井部長、軍医部壕を出る
島田知事と荒井部長を顕彰する「島守の塔」顕彰碑。

 6/26 島田知事と荒井部長、軍医部壕を出る
島田知事がいた軍医部壕の前に立つ、古い顕彰碑。1951年に立てられた。2003年撮影。


 「島田さんと荒井さんが軍医部壕を出られた日をはっきり確定できなくて申し訳ありませんが、確か25日か26日の午前0時前でした。島田さんは『この壕にこもっとっても駄目だから、国頭の方へ中央突破します』と言っておられたが、荒井さんが相当弱っておられたから、そう遠くへ行けるはずはありません。ああ、死に場所を求めて出られたな、壕内で死ぬと我々に迷惑が掛かると気遣われているな、とその時、感じましたが、我々にはもはや、止める気力はありませんでした。それが、お別れになりました。どちらの方向へ行かれたら、その後の消息は知りませんが、かねて言っておられたように摩文仁近辺で自決されたと思います」(大塚証言)。軍医部36人のうち生還したのは、5人に過ぎなかった。

 警察別動隊下地・長山班、15日かかって目的地の久志村にたどり着いたが、沖縄戦の終結で辺野古で米軍に投降。


 内務省は大塚報告に基づき、遺族とも相談の上、島田と荒井が軍医部壕を出たと思われる26日を死亡の日と認定、この日が命日となった。島田の在任期間はわずか5か月足らず、行年は島田が43歳、荒井が44歳だった。



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