2007年05月22日

5/22 米軍、安里川を突破。軍司令部、南部「転進」決める

 梅雨が本格化し、5月末の10日間で約300ミリもの降雨。

 米軍は前日、首里城の東約2・5キロにある運玉森(標高156メートル、現・沖縄カントリークラブ)の東斜面を確保。

「あの日は夕方の砲爆撃の止み間に各兵団の参謀長や参謀クラスが続々と詰めかける異例の事態に、かたずを飲んで発表を待ちました。(司令部)壕内の情報班室の溜まりに、それまでここへ姿を見せたことはなかった島田さんが『知事』の腕章を付け、荒井警察部長を従えて来ておられたのも異例でした」

「(牛島)司令官は何時もの微笑を浮かべつつ『お早う、かね、今晩は、かね』と、朝も夜もない壕生活を象徴するようなあいさつをともに現れました。敵が首里東西の線より南東の与那原に進出、敵の包囲網が一段と厳しくなったことは認めたが、軍が南部に撤退するとはあからさまには言いませんでした。『皆さん、今後は勝手に行動してくれたまえ』『新聞発行はご自由だ』『もう軍に協力する必要なないよ』など、はぐらかしたような言い方でした。島田知事には『首里周辺に残っている非戦闘員は早めに移動するように』という命令ともつかない指示を伝えると、司令官室に戻ってしまいました」
(沖縄新報記者・牧港篤三)

 米軍、安里川を渡って那覇市に突入。
 八原高級参謀は、参謀本部の 「沖縄は日本本土なり。寸地の残る限り後退善闘すべし」ノ方針通り、本土決戦準備の時間稼ぎのために、あくまで抗戦を続けるべきと考え、喜屋武半島への後退を心に決めながらも知念半島への後退、首里陣地での最終決戦を戦うの3案を用意、陸海各兵団の参謀長を軍司令部壕に招き、意見を聞く。大勢は喜屋武半島への撤退案に賛成、八原は牛島軍司令官、長参謀長の決裁を得て、目論見通り喜屋部半島への撤退を決める。南部に追い詰められる県民の運命は、考慮の外であった。

 軍高級副官兼管理部長の葛野隆一中佐ら将校約25人を先遣隊として島尻郡南端の摩文仁の丘へ派遣、新たな軍司令部壕を確保させる。また移動可能な負傷者と軍需品の後送を直ちに始めるよう命じると共に、軍司令部要員の壕脱出は27日、第1線の後退は29日ごろと予定した。

 牛島が言った「沖縄の島の南の果て、尺寸の土地の存する限り」「残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の1人まで」戦うことが現実となる。


第32軍司令部壕の地点=http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=26%2F12%2F51.766&lon=127%2F43%2F14.798&layer=0&sc=3&mode=map&size=l&pointer=on&p=%BB%E5%CB%FE%BB%D4%C2%E7%CE%A4&type=static&CE.x=440&CE.y=386

5/22 米軍、安里川を突破。軍司令部、南部「転進」決める
首里城守礼門下に残る第32軍司令部壕入口

5/22 米軍、安里川を突破。軍司令部、南部「転進」決める
県立芸術大学に残る第32軍司令部壕第5坑口



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