2007年05月30日

5/30 島田、大城森の壕へ移動

 「5月の末、報得川が梅雨の豪雨ではんらんしまして、北側にあった通信隊の壕(福地森)や弾薬庫の壕(秋風台)が水浸しになりました。連隊本部は通信隊の将兵を大城森の壕へ移動させましたが、その時、北郷連隊長の配慮で島田知事一行も移ってもらったのです。知事には22、3名、荒井部長には十数名の人がついてきたと記憶しますが、我々の壕は前年12月から3カ月がかりで掘った総延長1300メートルもある立派な造りでしたから、それぐらいの人数を受け入れるのは、たやすいことでした。一行は4、5日滞在されたと思います」

(歩兵第32連隊・平尾正男軍曹の述懐)



 沖縄新報社の大山、稲嶺、仲本3記者は志多伯の野重一壕を追われた後、高嶺村与座の墓地に潜んでいたが、「知念半島が安全」との情報を聞いて5月30日、知念村に避難することに決めた。しかし食糧がなく、大城森の壕へ島田を訪ね、米をもらうことにする。

 「知事と米の交渉をしました。よろしい、ということになったが、現物はここから数キロ先の壕にあるとのことで、警察の連中を取りに行きました。ところが、その方面は艦砲射撃がひどくて、近寄れません。止むなく我々は米をあきらめ、知事一行と別れて知念へ向かうことにしました。その時、荒井さんから『君1人ぐらいだったら何とかなるよ。ここに居たらどうか』と言われましたが、私たち3人はいつも一緒に行動していたので、ご親切に感謝しながらお断りして知念へ行きました。これが島田さん、荒井さんとのお別れになりました」


大城森の壕の地点=http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=26%2F7%2F45.923&lon=127%2F42%2F4.997&layer=0&sc=4&mode=map&size=l&pointer=on&p=%BB%E5%CB%FE%BB%D4%CD%BF%BA%C2&type=static&CE.x=376&CE.y=353


5/30 島田、大城森の壕へ移動
報得川

5/30 島田、大城森の壕へ移動
大城森の壕のあったところ

5/30 島田、大城森の壕へ移動
大城森の壕の前を通る小道。沖縄県営鉄道が走っていた。

  



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