2007年06月16日

6/16未明 島田知事、摩文仁へ向け轟壕を出発

6/16未明 島田知事、摩文仁へ向け轟壕を出発
轟壕入口

6/16未明 島田知事、摩文仁へ向け轟壕を出発
轟壕坑道

 島田、仲宗根官房主事、嘉数・小渡秘書官、当真警護官、案内の野村記者の5人で壕を出発。

 「その時、私たち女子職員は川下の方へ移動していました。早朝、水をくむために出入口近くの水くみ場へ来た時、長官が鉄カブトをかぶって出ていらっしゃいました。『長官殿、どちらへですか』と尋ねますと、こんな風に(体をぐっと近づける仕草をして)近寄られて『僕たちはこれから軍の壕に行く。君たち女、子供には(米軍は)どうもしないから、最後は手を上げて出るんだぞ。決して(友)軍と行動を共にするんじゃないぞ』とささやくように言われました。長官を尊敬し、信じていた私は、それを聞いて悔しくて、悔しくてたまりませんでした。長官は直接おっしゃっていませんが、県庁では常々、死ぬ時はみんな一緒じゃ、最後は靖国神社へ行くんだ、絶対捕虜になるな、って聞かされてきましたから、あの時は長官の真意が分からず、情けないと思いました。『長官、今になって捕虜になれとおっしゃるのですか』と言ったつもりですが、長官にそれが聞こえたかどうかは分かりません。長官はそれだけ言うと、後ろも振り返らないで出て行かれました。私はもうがっかりして、起き上がる元気もなくなり、2、3日寝そべっていました」

(山里和枝の述懐)



 摩文仁までの約7キロは、間道伝いのコースを取った。

「あの日は夜明けと共に、轟の壕を出ました。米軍の艦砲射撃が本格的になる午前7時までに行き着こうというわけです。轟の壕のある伊敷の丘陵を南へ突っ切り、小波蔵集落の東端をかすめて糸州ー伊原ー米須ー小渡(現在の大渡)ー摩文仁へと、丘陵地帯の山裾を拾って歩きました。道中は至る所、電線が垂れ下がり、県民や兵士の遺体が累々と横たわっていました。その一体、一体に長官は手を合わせておられた。少しやつれてはおられたが、動作は相変わらず機敏であられたですねえ。摩文仁では先ず、軍司令部の壕を訪問されました」

「知事さんが軍司令部壕に入られ、私たちが表で待っていた時間は15、6分でした」

(当真の述懐)





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