2007年06月18日

6/18 島田、荒井、摩文仁軍医部壕にて

 「大部屋の右奥を左手に曲がると、幅2メートル、奥行き10メートルぐらい、天井は大部屋より低い細長い部屋がありました。将校3人はそこに居ました。島田さんたちも、ここへ入って頂きました。両方の壁際に、どこから持ってきたのか、体の幅ぐらいの湿気よけの木製の簀の子を敷きまして、縦2列に寝ていました。配置は一番奥から左、右に篠田軍医部長と鈴木軍医中佐、2番目が私と島田知事、3番目が県庁職員(仲宗根官房主事と思われる)と荒井警察部長…という順序になっていました。つまり私と島田さんは通路を挟んで隣り合わせでした」


 「島田さんが来られたころには、南下して来た米軍の攻撃が激しくなり、日中は壕の中に潜んでいました。島田さんは鈴木中佐と学生時代や京都の思い出などを、なごやかに話されていました。鈴木中佐も私も酒好きでしたから、よく消毒用の局方アルコールを水で薄めて飲んでいました。あれ、20パーセントくらいに薄めると、甘くておいしいんですよ。島田さんも酒好きでしたから差し上げましたが、あの頃はあまり飲まれず、お付きの方にあげておられた。荒井さんは大分弱っておられ、島田さんは『荒井君、大丈夫か』『しっかりせえよ』と病状を大変気づかい、励ましておられました」

(大塚述懐)


6/18 島田、荒井、摩文仁軍医部壕にて
摩文仁軍司令部壕へ降りる階段。火炎放射器で焼かれた後が残る



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